昭和43年01月23日 月次祭



 只今、只今のここでこれを頂きました。これはあのう田主丸の小野先生の所の、小学校2年生になります娘の子が書いた図画で、5枚その中からい1枚、今日準優勝のおかげを頂いたと言うてお礼の参拝お届をさせて頂いた。去年は小学校1年生で出して金賞を頂いた。幼稚園の時から( ? )とてもとても大人でも書けそうもございませんですね。素晴らしことです。私しはこう頂いたんですけども、けさも信心も手習いも同じ事だと言った様に。毎日毎日のその時の、しかも小野先生に聞いてから毎日ですね。
 それで去年は金賞、今年は少し勢いがたらなかったと言うてその。男の方が金賞だったそうですけれども。私し只今の秋永先生のお話の中から、今度の須田先生の講演があります、あぁいう素晴らしいおかげを受けておられる、いうんですけれどもそういうおかげが、先生の信心のどこから生まれたかと、いわゆる、神徳、人徳、それに学徳まで頂いておられる状態を、それに不動精神でまた素晴らしい、何10年間いわゆる3時50分の金光様のお出ましを、その一日だって欠かした事がないといわれるほどだ。
 いわゆるこの人の前にはだから、病人もにもなさらなければ災難もない、勿論金銭などに不自由することはない。金光様の信心を真で頂いたら、それこそ無限の出所がないと仰っておられます。ですからあれは須田先生、あげな真似はでけん、言うたら其れまで。ありゃ特別扱いしたらいかんのです。特別扱いをせずに。誰でもあぁいうおかげは受けられるんだ。いやぁあの以上のおかげが受けられるんだ。此方の事を生神生神と言うが、此方ばかりが生神ではない、皆んなもこの様なおかげが受けられると仰せられる。
 いわゆる生神を目指しての信心なんです。それにはです。やはり本気での稽古が必要であると言う事なんです。だからよく私しの事でも、とても親先生の真似は出来ん。と言う様な事を言われる。私しはそんなことはない、先日秋永先生が言うておられました様に。ある新興宗教の現在指導者的な方が書いておる本に。お弟子さんに向って言われた。今ここでは私しが師匠であり、貴方達が弟子だといわれたんです。未来ではあんた方が師匠で、私が弟子だといわれる。非常に素晴らしい言葉だと思うです。私はそこそれで、私しもその様に信じます。
 私共がいわば九州の祖といわれる桂先生であっても、甘木の安武先生であっても。久留米の石橋松次郎先生であっても。絶対私共の信心の上に唯一そういう先生方の信心が一応私共がいわゆるマスターするというか。須田先生や例えばこういうおかげをこういう修行の中から頂かれた、いわゆるもう後々のものはこういうみやすうおかげが受けられるという、修行の中から、そういう先生方の信心を徳を私共は乗せて、そしてここから又大坪総一郎の信心を打ち立てられなければならんのです。
 何故かって師匠は喜ばんのです。なるほど人から言われる様にです。今こそ私が師匠だけれども、未来では貴方方が師匠だ。私があんた達に訪ねなければならないのだ。恐らくそうなんです。桂先生も仰らなかった、安武先生も仰らなかった。石橋先生も仰らなかったことを、私しが言うております現在。ですから私しはこりゃ慢心じゃない。私は本当に先生方の信心を一つ踏んまえて。ここに大坪総一郎の信心、いわば合楽の信心というものがです。詩が得る事、師匠も喜ぶと言う事を思うのです。
 そういうと皆さんも同じ事でしょう。大坪総一郎の信心を踏んまえて、そして皆さんがより新しい、より素晴らしい信心に飛躍せにゃつまらんと、目指すところは何処までも教祖生神金光大神の、あの教師と言うものを目指さなければならんのだと私しは言う。そういう意味合いにおいてです。須田先生当りの場合の御信心はです。あれは須田先生のだから出来るのだと、そうではない。いわゆるかかってるものはかかってるものもある。真の美学をされた先生である。
 いつからもう宗教なんか全然もういわゆる迷信と思い込んどった。いうなら必ず信心をけなしておった。所がその奥様である先生の奥様が先生がご病気の時に入信されてそして一生懸命お参りされる、その生きて行かれる姿が変わって来た、そこにちょっと目を見開かれた訳ですね。これはやはりこれは。宗教も馬鹿にならんぞと。それでもやはり神様を信ずる、いや神様のおかげで病気が治ったなどとは思いもしなかった。
 それでもそこから、いわゆる宗教に対する所の関心というものが、もうそれこそお道の本と言う本をもうあらゆる本を、もうむさぼる様にして読んだと、述懐しとられます。そこでまだまだ先ず自分がしようとは思わない。3年間そういう転機が続いてある、そして初めて金光様にを、見に行こうしようと言う事になって、いよいよ金光様の御神徳にふれられて、それこそ神選びの思いで大変な事になってと言う感があって。
 そこから金光様へのもうそれこそ、憧念心に燃えた。金光様への憧れが、とうとう自分たち一家が金光に、その住まいまでも移されると言う様な、熱烈な事になられた。金光中学の金光高校ですか、の金光学園の学園長を長い間なされました。当時無報酬でなされました。と言う様なおかげ。もう4,5年も前だったでしょうか。伊万里の竹内先生がここへ、そのおみえられるようになってからでございます。それであのあちらの須田先生と同じそのう先の教団の中でも( ? )できておる。
 それこそ本当の信心とは本当の信心とはという、それこそ教会遍歴をされたけれども、私の心にずしんと来るものが、どこでも見られなかった得られなかった。それこそ本当の事を教えてもらうならば、それこそ日本中歩んででも真の信心、真の道を得たいと言うその熱心さであった。もう不思議な事にですね。ここへ合楽の事当時椛目の事を聞かれて、お参りされて3回素足を伊万里から踏んでおられます。もう大概なもんがそれで諦めますたいね。ありゃ伊万里から何時間て自動車を使って来てからです。
 普通お参りしてからに大体居らん筈ないのに私がいつも居らない時にみえられる。4回目かに私しに初めてお会いした。そして御理解を頂かれて、私しが捜しておったものを求めておったものは是であったと。もうそれっきりそれこそ改式をある教会になさっておられましたけれども。その霊神様はまで全部ここに祀られる様になられる、と言う様なはまり方なんです。まぁその竹内先生がです。或る時に団扇を持って見えました。先生是をどうぞと言う事でそれを頂きました。
 竹内先生けれども私の事情も分っていなさるから、神様にお願いしましたら、3日振りに夢を頂いた。そしてその時の御理解が。道と言うものはのはね。どういうものかと。道の( ? )と言う事を申しますね。道のためならば、それこそもう目が蔵になっても( ? )あります。所がその道と言うその道が実は難しいのです。道の為にはどう言う様なありかたにならなければならないか。本当な道が分った。いわゆる信心道、金光様の信心は道なのである。
 御理解にですね、あれはこう古事記にですか、おかげをこうしんみょうに流した。例えばですね。もうこのまままぁいうなら。今まで竹内先生は御存じの様に、伊万里の、伊万里の助役でいらっしゃいます。例えばその助役の座と言うものが、例えばなくなってもです。道と言う話を聞いてはならないという響きの御理解を頂いておった。何を言ってもね、そういう私しはそのう、その道に対するところの気持ちと言うものが働いて来なければならないと思うですね。もう数えたらどうかと思うけど御用で。
 言うだけでもも御用で、これではもう道が分かる筈がありません。そして私が道の側からと言う事で道が解る筈がありません。私しが修行中に、是は家内に申しましたけれど、いわゆるそれこそ世界中に最良の女だというたらあんただとね。それでも私なりに、その相手を( ? )あんただけれどもね。大事な事と言うたら私し両親なんだ、だから両親の言う事に気に入らんなら何時でもあんたどん分れると言う。私が病気になった、もう例え何があっても大事だというても、あなた方両親ぐらい私にとって大事なものはない掛替えのない大事なもの。
 けれども私には道がある。私には信心がある。神様が、例えば家内を離縁せよ仰るならいつでも、だからあんた方の言う事をきかん。だから神様のお家に住むこといかん、行かんと言うのが、私しが道に対する考え方である。唐津に( ? )家内をあえて続ける事が出来た今日まで。御用が少なくてもおかげで続ける事が今日まで出来た来た、そこが信心だと思う。それが信心の道だと思う。おかげで道を準ずると言った様な事(?)あれですけれども後々お道の信心と言うものはそんなものではないと言う事。
 問題はその位な一つの同義と言うものが信心ではなからなければならない。でなかったらほんとうの道は分らない。須田先生の御子息に須田倫太郎先生と言う方がおられる。あすこに書きだしてありますね。3月10日に久留米の文化ホールに講演に見えられます。そりゃもうそれこそお父さん。御本部の御信心のかんかもございます。いや神様の五代様のかんか、いわゆる専修大学の教授をなさっておられます、もう最高の学問を身に着けてある学者としての、もうその立場としての信心なさる。
 それがもう熱烈な修行です。毎朝、朝3時50分にお出迎えに出られる前にお水を掛られるです。久留米の信徒会いわゆる松陰会であちらに、御願いにした時、いわば3月10日に。ところが丁度その日はあちらの専修大学の卒業式の日に当たっている。大概のものならそれだけでも断わりますよね。そしていうならばもう本来自分の任務であるところが須田先生、5日6日倫太郎先生のそれは枝である葉である。教授の方は、どこまでも信心が命である。
 命を前面にそれを把握しておられるからこそ。それを押してそちらの方の講演に伺いましょうと言う返事があったというのでございます。私しはせめてそれ位な信心は、その位な事とは何ですけれども、その気概をもった信心をなされなければ本当な道は分らない。それまでに( ? )( ? )そこに( ? )( ? )、私しは先日渕上先生の時代に、そちらにかけさせて、この前の日曜日に、昔おうとうと言う。当時日本に( ? )言う様な書き手がおられた。書道の大家である。
 物を塗ったり、この人はもう非常にその悪筆であった、もう先生があなたは駄目だよと言われる、もうそれこそ悲嘆して帰られておる所に、和尚さん( ? )それを書かれたその( ? )そのまえに、丁度道を間違えたであろうカエルが柳に跳びつこうとしておる姿に、でこうふっと気付かれた、そのなんとはなしにそのカエルが何回も何回もこの跳躍して挑戦している、とうとう最後にはその柳の木に飛び移った訳です。だからもう自分は駄目だというなら、ともかくこれでは本当に出来ません。
 ともかく( ? )そのたいと言われるほどにです。もう書き手になられたと言う事です。それがとても親先生のごたる真似は出来ん、とても親先生のごたる真似は出来ん、と言う様なことで須田先生の話を聞いても、私は大した事じゃないと思う。金光様の信心をしたら普通の人はしませんよと言う事は、金光様の信心をいただいておりゃ金に不自由する様な事はありませんよと。初めは豪語ですね。豪語どころかそれを確信して言われる、そう言う事実おかげを受けておられると言う須田先生一家もです。
 べつにいうものが、そういうおかげを(のがして)お出でられた、その信心と言うものがです。どういう信心から生まれたか、須田先生のお話を頂きながら、どこからあぁいう信心が生まれたかと言う事をです。私共は頂きたいとこう思う。そこで私しは皆さんに申しております。須田先生にぽかっと話を聞いただけじゃいかんですよ。これはもう不思議な事ですよね。今日も竹内先生の所で、竹内先生の部下と幹部の方達と、その事について皆で話し合ったんです。それで具体的に話したんですけれど。
 さぁそこの実際直面して見ないと分らん。さぁ帰って来てから実際その事にかからして頂いて、あれもそうじゃなかった。これもそうじゃったと言う様なところで、( ? )が出てると言う様な事でも。昨夜御祈念の後に頂いた事である。例えば皆さんがなんちゅうと、子供小学校の時に話しても( ? )( ? )ね。( ? )例えば算数なら算数の勉強をなさる。どうしても解けない。分らない。それでもやっぱり何遍も何遍もしても分らない。そういうことでありますと。
 明くる日先生に解らん所を教えてくださいと手をあげれば出来るでしょうが。私共の( ? )先生、竹内先生( ? )道教先生。もう算数の時間にそこをくうっとする。私共よばれて頭が悪い算数が苦手、算数をもうあの頃随分流行ったんですね。算数のたんべんに( ? )( ? )かじやもっとらぁっと言いなさる、わかったかぁっと。分かったとも言わん、解らんとも言わん。それで尋ねてもだぁれもしらん。知らんのを( ? )( ? )( ? )( ? )( ? )してからですね。
 むこもちしてから言われる。このボンクラが今にしたら思います。本当に( ? )最近私しの朝の御理解頂いてご覧。私がね。こうこうして皆さんに聞いて貰いよるです。ほんなこて、なよ( ? )こういう素晴らしいお話し、こういうここが分りゃおかげを頂けれる。お徳が受けられる。そこでこういうお話しあんた方まっと、例えばその明くる日なら明くる日、なんでこげんとが解らんか。
 それでもってこうこうやって解らん。したらやっぱですねあのう、そばの( ? )( ? )分ろうとしないか、( ? )だからもう。質問する事が分っとらん。質問することが分っとらん。質問する所がわかっとらん。特にわからん所があるなら尋ねたい、もうこうずうとこう聞きたい( ? )( ? )準備をしとかなければですね。( ? )だけ解ららんのです。( ? )( ? )私しは今度の神乍な、須田先生のこの合楽にお見えになられると言う事は、もうそれこそ神様の何ともいえん。
 御引き回しの上の事であると思います。そして私共長年、もう長年いわゆる合楽的信心稽古させて頂いた、それを一つの基盤として。本当のもっとより本当の信心をです、いわゆる合楽的信心から、金光教的信心、金光的とはおかしいんですけれど、まぁ共々にです一段とおかげを頂かしてもらえれる信心に飛躍さしてして頂けれる、教えに恵まれたと言った様な感じが致します。いよいよ寒修行も3分の2を終わりました。後まぁ10日間でございます。
 本気で一つ寒修行のおかげでも頂かしてもろうてから。いよいよあと10日間でもいいじゃないですかね。おそらくこの寒修行というのを、熱燗になるだろうと思う。津田先生迎えてのこの教会。と思う最高調の時に。私共の信心は常に最高調であると言った様な、おかげを頂くからには、おかげ一つ、単価も十分、原価も十分、送り出してそして、朝の御祈念の( ? )このこと中心になって修行として。本当に合楽に御縁を頂いとる全員の方がです、この寒修行に参加しなければ本当は相済まん。
 もうあと10日間。それこそおかげを頂かしてもろうて。全部とはいわん三日間でもいいじゃないですか。どうにかこうにか一遍でもいいじゃないですか。いわゆる寒修行中に一人でも( ? )ここにみえられる。( ? )御祈念が始まるその雰囲気、そして御理解を頂く事の有難さ。聡明のものを見守って体験さしてもろうて、生き生きとした信心の喜びをです。須田先生の説いておられる信心研修会において、先生の信心を聞かして頂こうと言う様なおかげを頂きたいものです。
 今度の寒修行成就には皆さんおかげを受けております。それぞれ様々なおかげを、皆さん受けております。修行さしてもらうと心が変わる。思い方が変わる。今すぐここでは変わったおかげが現れておる。先程総代さん、( ? )さんからお届けがある、毎朝、朝の御祈念に参って来る。もう私しが出て来る時にはここに出て来ておられます。ここに座られます。( ? )そしたら( ? )( ? )生き生きとした神様( ? )もう出られたら( ? )。
 それこそ( ? )( ? )と言う様な御繰り合わせを頂いておられます。そして毎日朝の御祈念に、神様から色々とお知らせを頂かれるです。御理解です。こりゃもう( ? )あんたが( ? )あなたがいわゆる、あなたの御理解、頂かれたことを書きとめておられます。その中にです今朝からですね、牛蒡の長い牛蒡を頂いておられる、お知らせを頂かれた。私が牛蒡のあれを長く苦労して折る、だからどう言う御用にでも立つことが出来る。
 御祝儀ごとにでも、仏事ごとにでも、日常茶飯事のお惣菜にでも、もう牛蒡は何にでも使われる。それが( ? )( ? )牛蒡が白うなったらおかげにならん。牛蒡が御用になる為には、やはり牛蒡はごほうが必要である。長い苦労、皆さんもそういう意味合いで、信心修行長い苦労して来られた。それがいわゆる三本の人もありゃ一本の人もある。( ? )ひともある。折角頂いておるのに御用が御用になっていないと言う事にもある。
 そういう意味合いにおいてです、今私はいうなら信心は御用なりと言う事を発明された事にあります。それはねとても私共が言うておる様な御用じゃない。お供えをする事が御用、( ? )御用させて貰うと言う事が助かるために( ? )そんな安っぽい御用じゃない。それこそ須田先生の命がそのまま御用である。そういう事を私しは最近還元と言葉を致します。( ? )( ? )してある所にお返してある。命に対する所の還元である。そこには尽きぬおかげが受けられる。
 人間の一生にこの世に生まれて来ておるのは天地に対して還元は還元の生活が出来ると言う事なのである。それを先生は御用と言うておられる。そういう私しは御用の出来れるおかげをです、この度このさいどうでも頂かせて頂きたい。皆さんここのところをほんとに、私しがこまごまと( ? )一昨日の御理解にとうております。でもここに今度( ? )思うのでございますけれども。
 それをほんとに一つ皆さんが、そういう御用の出来れる、( ? )くれれるおかげが頂ける。お世話になっとるけん( ? )先生の様なものではない。もうここでは私共がこの世に生を受けてきた、この世にお生かしのおかげを頂いておる者としてです。当然の事当り前の事としてです、その御用が出来る。感謝の還元が出来る。ここからはもう願わんでも頼まんでも、金光の上にいわゆる金銭の上に。
 一切の上に恵まれて来るところのおかげ、そういうおかげがです、あの世までにも続いて行くと言うおかげにならなければならないのです。ただお互いが幸せとは幸せとはと、おかげを頂くおかげを頂くためにはと言うのではなくてです。そのおかげのためではなくてその、おかげの元になるもの、その幸せの元になるものを、私は今度の須田先生から須田先生のお話の中からです。本当に(石橋先生)と言う願いをもっております。
 ですから皆さんもそこんところを恐らくこれはね。私しもそうですけれども、こう思うとる事を活用する事は大変難しい事。想像の仕様がない、次の例えば恐らく須田先生もこう( ? )( ? )けれどもです、( ? )( ? )どんな事でも御出来になられる。と私は思う。けれどもそこんところを天地の、そこんところを天地の幸せえらび、どこを訊ねてみないとわからんのです。で皆さんそうでしょうが。
 そこんところの為にです。私はここにまだ残っておる黒木さんの修行期間をです本気で一つ、もう合楽の信奉者全員あげての寒修行を、(幾ら)になった火の玉の様な寒修行、そして須田先生から、本当に勢信心の有難さというものをです。体験さして頂いていきたい。そういう天地が創り出されていく時に、私でもおかげが受けられるなと。私でもあの位上手になれるぞと、言う様な自信というかね。確信が出来ると私は確信致します。
   どうぞ。